　

都心のまんなかに森があり、2つのアパートがあった。

のちにそこにもう2つの棟が追加された。広い敷地にゆったりと4つの棟は離れていた。桜の木がたくさん植わり、ずうっと奥の方には独身寮がある。なべころ坂の上にある社宅に引っ越したのは、私が幼稚園に入る年くらいだった。

森の中の木の根やくぼみや獣道のようにできた道やあかまんまやへびいちごがある場所なども熟知していた。塀を乗り越えてもっと奥に行くと、小さい滝のある池もあった。どんぐりやしいのみをひろったり、桜吹雪の中、針に糸を通したものを持ち、首飾りを作ったりした。夏にはセミが木の根元から登って来るのを見たくて早起きをしたりした。セミの抜け殻しかさがせなかったが・・。

追加された2つの棟が建築中にはその大工の家族の子供と私の妹が仲良しになり、夕ご飯をそこでいただいたりした。裸電球がぶらさがるテントのようなところの中にいる妹を思った。その時私は妹がひとさらいに遭ったような気がした事を思い出した。

近代的な社宅だったが風呂は無く銭湯へ通っていた。その後ベランダの半分が仕切られて風呂が作られ、厚いガラス窓は４～５段のルーバーで開いた。出入りは台所のドアと風呂のドアをベランダに向けて90度開け、ふたつを入れ替えてから閉めるのだ。外から見えないようにするために気を使うったら。一面白い戸棚で埋め尽くされているダイニングには、造り付けで３つに折りたたんで壁にしまえるテーブルがあった。

ベランダにはダストシュートがついていてごみはそこから捨てる。１階のごみ置き場に落とすというシステムがあった。便利なようだがそのごみ置き場の掃除というのもある。トイレはその頃まだ珍しい和式の水洗だった。トイレのドアもガラス（くもりです）、そういえば玄関と和室の境目もはめごろしのガラスの障子だったっけ。門の向かい側にはおじぞうさまがあり、いつも母はお辞儀をして通った。バス停に行くまでの間に大きなヒマラヤ杉があり、この一本の木が私の木恐怖症の原因だ。私はそこに２０歳頃まで住んだ。

　先日、と言ってももう１０年前になるが、目黒駅からバスに乗り、停留所で３つ前まで行く用事があって、木は恐いがあのアパートをみてみようと思い立った。これは年を取った証拠かとも思う。少し前に父もその場所を懐かしい気持ちからか訪ねた事を聞いていたからだ。父も私のようにウチを見ながらグルーッと回り、向こうの門の前にあった店に入り、「昔私はここに住んでいました」と店の人に話し掛けたと言う。その時の父の様子が、気持ちが、今解るような気がする。

スタジオでフラメンコの発表会へ向けての最終レッスンをしたあと、みんなと別れて反対側の停留所に行った。３つ先の懐かしいバス停を降り、肉屋、八百屋、お菓子屋、タバコ屋を見ながら、おじぞうさままでの坂をおそるおそる見上げた。ヒマラヤ杉は消えていた。昔は人のあとをついて歩いたりしたものだが、その日はほっとしてちょっと淋しさも感じながら坂を登った。

　そしてアパートはあった。築後４０年も経っているので薄汚れたように感じたが、大きな門もウチの窓もあった。ぐるーっとそと側の道を回って、向こうの門から入った。電気のついたウチの窓を眺めながら、階段の下へと回り込んだ。葉が多い季節だったためか木が以前よりたくさんになったようで、うっそうとしていた。こわくないこわくないと心で唱えた。

ボールをぶつけて遊んだアパートの側面を通り、窓辺の柵にぶら下がってでんぐりがえしをした１階の家の前を通り階段口に来た。独身寮へ続く道もある。見慣れた郵便ポストもあった。低いように感じる階段を上る。ここは吉田さん、そのとなりは小菅さん、そして２階のウチの前に立った。ワイヤーが入った厚いガラスの戸があった。

取っ手に触ってみた。そしてきびすを返し、１階と２階の間にあるひさしを思い出した。そこは「アジャックオランタン又はスピリットオブアデッドパーソン」（注　2001ウィザードにある）でも書いたように、火の玉が座っていた場所だ。チラッと見てから降りた。見慣れた四角い敷石を踏んで、まりつきやいしけりや花火や自転車の練習をした広場へ来た。独身寮の方へ降りる“だるまさんがころんだ”をした階段や、泥の団子を並べた場所を見た。なべころ坂を降りて帰ろうかとも思ったが、あっちも塀から大きな木がたくさん出ているだろうと思いやめた。そしてバスに乗り、電車を乗り継ぎ、いつもの生活の場に戻った。

　その後もう１回だけその場所を訪ねている。アパートは跡形も無く消えていた。広い土地にエントランスがバカ広く、遠くにきれいなマンションが建っていた。その日は次女と一緒だった。新しい景色に慣れるまでしばらくその場所にいてくれた。

　おじぞうさまに手を合わす次女の姿もうれしいものだった。
　私もおじぞうさまにお辞儀をしてから帰って来た。